横浜で営業している個人事業主です。ホームページ制作、システム構築、ページ修正などお気軽にお問い合わせください。

本覚寺の石垣にあった幻のトンネルに迫る

反町
本覚寺へ至るスロープの石垣

横浜都市発展記念館のウェブサイトには、横浜絵葉書データベースという昔の絵葉書を紹介するコーナーがあります。

このページの、16.神奈川のコーナーで見つけた「タイトル:神奈川青木町本覚寺」。昭和戦前期のものとして紹介されています。

出典 横浜都市発展記念館 横浜絵葉書データベース(転載許可取得済)

この絵葉書が写すのは、今も残る立派な石垣と、広々とした現国道一号、そこを悠々と走る横浜市電。

しかし、今の現在地を知っている人ならば誰でも気が付く違和感。
本覚寺へ続く坂道に、トンネルの入り口のようなものが写っているのです。

以前アップしたの青木橋周辺記事にあるキリンファイアのCM動画で現在の周辺の様子が分かります。

いつの写真なのか

そもそも本覚寺の石垣は1928年(昭和3年)に復興局によって築かれた、とあります。

そして、絵葉書の紹介には「昭和戦前期」の文字。

第二次世界大戦がはじまるのは1939年(昭和14年)、日本軍の参加と考えたとしても1941年(昭和16年)。

ひとまず1928年(昭和3年)から1941年(昭和16年)までの間の写真と考えてよさそうです。

トンネルの現在

普段まったく意識せずに通り過ぎていましたが、よーく石垣を眺めてみると、トンネルがあった場所と左右の石垣では、色がわずかに違うことが分かります。

近くでみると、似たような石の谷積みでありながらも、トンネルを塞いだところと両脇で石が接続していないことが分かります。
この場所だけあとで塞いだことは明らか。

トンネルの謎

トンネルがあったこと自体は絵葉書、そして現状からも疑いがありませんが、気になることがいくつか浮上してきます。

何のためのトンネルなのか

もちろん、片側だけしか写されていないので、この坂道を貫通しているかどうかもハッキリしないのですが、いずれにしてもなんのためのトンネル(または穴)なのでしょうか。

ちなみに反対側は、現在坂道にぴったり沿うように本覚寺会館が建てられていて確認することができません。

完全な憶測ですが、当時高島山トンネル出入り口そばにあった東横線の神奈川駅(1950年/昭和25年廃駅)へのショートカットのためだったりしたら…… たくさんの人がこのトンネルを出入りする様を思い浮かべると楽しいですね。

いつ塞がれたのか、なぜ塞がれたのか

現在この場所にトンネルは存在しません。ということは、何らかの理由により、あるいは当初の目的が消滅したことにより、トンネルが塞がれたということ。

そしてそれは、いつ頃なのでしょうか。

お話を伺ってみた

本覚寺の住職に電話でお話を聞くことができました。

住職によると、トンネルの目的としては軍人会館(とおっしゃっていたと思う。本覚寺の土地を貸していたとのこと)への通路とするためのもので、その施設を利用する人たち専用の通路だったということです。

そして、トンネルが塞がれたのは「50年ほど前だったんじゃないか」との事。つまり1970年前後。

トンネルの上を通る道、高島台へと続く「トンネルのあった坂道(市道)がキレイに整備されたタイミングでトンネルも塞いだ」ということでした。

明確な時期は不明ながら、利用目的や閉鎖となったいきさつについては、住職のご記憶にはっきりと残っておられました。

トンネルの目的 軍人会館について

一般的には、軍人会館というと九段会館のことをさすようです。九段会館の概要としては、

在郷軍人会が自らの本部を当施設内に設置した[注 3]ほか、戦前・戦中期を通じては主に軍の予備役・後備役の訓練、宿泊に供された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%AE%B5%E4%BC%9A%E9%A4%A8#%E6%A6%82%E8%A6%81

とあります。この場所にあった施設も、似たような目的の施設だったのでしょうか……。

横浜市のサイトから地図を参照、軍人会館であろうエリアを赤枠で囲みました。

少なくとも1931年(昭和6年)には存在しており、戦後すぐとなる1947年(昭和22年)の地図でも同じ建物配置であることが確認できます。絵葉書のトンネルは、まさにこの施設を利用するためのものだった、ということです。

その後、1963年(昭和38年)の地図では、まったく別の配置になっています。
本覚寺会館が建っている現在の状態とも違っていますので、何かしらの建物の建設・解体が行われたのでしょう。

ひとつ気になっていたのは、そもそもトンネルなど作らなくても南側から迂回すればすぐにたどり着けるじゃないか、という点でしたが、これについても住職のお話によって仮説が立てられました。

施設のあった時期の地図をよく見ると、西側と南側がなにかで囲まれているのが分かります。
北側~北東にかけては高島台(高島山)の急峻な山肌に守られている地形です。

そして、住職のおっしゃった軍人会館というキーワード。けっして誰もが気軽に入れる場所ではなく、利用するのは、軍関係者や軍に用事がある人間だけだったのかもしれません。

そう考えると、機密性を維持するために西側と南側を柵や壁のようなもので囲み、人間はトンネルからのみアクセス可能にした……そんな施設だったのかもしれません。

市道高島台第26号線について

高島台へ続くトンネルのあった坂道は、市道高島台第26号線が正式名称です。

横浜市の提供する横浜市行政地図情報提供システム「よこはまのみち」というコーナーでは、道路情報を検索することができます。

このシステムで高島台第26号線を調べてみると、告示日が平成1年10月13日となっています。意味としては、市道として認定されたのが約30年少し前、平成1年10月13日ということになるのでしょう。

住職のご記憶にある50年前という時期とはかなりズレがあります。

ところがこのシステム、実はデータ登録の都合で告示日が平成1年あたりに集中してしまっている、という事情があるのだそうです(道路局の方にお電話で対応いただきました)。だから、実際に市道として整備・告示された時期は、平成1年よりも前である可能性もかなり高いということです。

もちろん、住職のおっしゃる整備された時期と、実際に市道として認定告示された日が必ずしも一致するとは限らないのですが。

まとめとこれから

トンネルを塞いだあたり周辺の石垣は、下の3種類で構成されていることが分かりました。

1)オリジナル石垣 1928年(昭和3年)

2)トンネル塞ぎ石垣 1970年(昭和45年)前後

3)市道整備に伴う石垣 1970年(昭和45年)前後

実は、住職にお話を伺う前は、戦後すぐにはもう塞がれていたのではないかと勝手に推測していました。
この辺りで建物が残るかどうかのキーポイントが関東大震災か横浜大空襲にある、という決めつけが頭にあったからでしょう。

そのため、約50年前と聞いたとき思ったより古くない、と感じました。60才以上のかたなら、子供のころの記憶としてはっきり残っているでしょう。

とはいえ、興味がない人にとっては、国道沿いのただの「壁」(笑)
ネットで検索しても、絵葉書以後のトンネルの写真はまったく出てきません。

もしできれば、記憶にある人のお話を伺ったり写真を見せていただいたりしたいものです。
また、可能なら塞がれた時期についてももう少し特定したいところ。

それにしても、トンネルを知るきっかけとなった絵葉書のタイトルは神奈川青木町本覚寺ながら、構図として横浜市電が花を添えていることは明らか。そして、1970年(昭和45年)前後と聞いて思い浮かべるのは、1972年(昭和47年)に廃止となった横浜市電。

横浜市電衰退のきっかけとなるモータリゼーションにより、道路整備の需要が高まっていたことも間違いないでしょう。青木橋、そして本覚寺周辺にもやってきたその波により、不要となったトンネルも塞がれることに。

一枚の絵葉書から時代の変遷が読み取れる、じつに楽しい調べものとなりました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました