本屋の店員さんによって選ばれるという本屋大賞。
2020年の本屋大賞に輝いた凪良ゆうさんの小説「流浪の月」を読みました。
書店員さんに選ばれる賞ということで、楽しく読めるという点では信頼を置いている本屋大賞、本作も決してつまらないということはなかったのですが、正直にいうとちょっと素直に受け止めにくい部分が多い読書となりました。
書評の記事やブログ、知り合いの感想も絶賛に近い意見が大勢を占めるなか、この記事では不満の感想が多めとなります。
本作、あるいは凪良ゆうファンの方にはもしかすると不愉快に思われる部分もあるかと思いますので、そのような方はスルーしていただきますようご注意ください。
あらすじ(ネタバレ)
あなたと共にいることを、世界中の誰もが反対し、批判するはずだ。わたしを心配するからこそ、誰もがわたしの話に耳を傾けないだろう。それでも文、わたしはあなたのそばにいたい―。再会すべきではなかったかもしれない男女がもう一度出会ったとき、運命は周囲の人を巻き込みながら疾走を始める。新しい人間関係への旅立ちを描き、実力派作家が遺憾なく本領を発揮した、息をのむ傑作小説。
Amazon 商品の説明
アマゾンに掲載されているあらすじを読んでもあまりピンときませんね。
下に、多少ネタバレを含んだあらすじを。
物語は主人公・更紗(さらさ)の少女時代から始まります。
仲が良くてちょっと変わった両親のもとで伸び伸びと育てられていた更紗。しかし、父の死、母の失踪によって親戚に預けられることになると環境は一変。家に帰りたくなくて、いつまでも公園で遅くまで本を読んでいるような日々を過ごすことに。
あるとき、同じように公園で過ごしている大学生・文(ふみ)の存在を意識しはじめます。
学校の友達からは小さい女の子をいつも眺めているヤバイ大人と思われていた文でしたが、その文に雨の日に傘をさしてもらったことがきっかけで、更紗は文の家に逃げ込むことに決めます。
結果的に、親戚の家にも戻らず、学校にも行かず、数か月を文の家で過ごすことに。文はみんなが言うようなヤバイ人ではなく、更紗にとって父と母と暮らしていた頃のような楽しい日々。厳格な家庭で育った文にとっても、更紗の自由奔放さがよい刺激になります。
しかし、世間的には立派な誘拐事件。二人で出かけた動物園で警察に見つかってしまい、更紗は保護され、文は捕まることになってしまいます。
――それから年月がたち、誘拐事件の被害者としての更紗、加害者としての文もそれぞれの人生を送ります。
二人にとってあの誘拐事件はその後の人生にどのような影響を及ぼしていったのか。そして、二人の人生が再び交錯することはあるのか。
感想(ネタバレ)
冒頭で書いた通り、全体としてつまならいということはなかったのです。
決して理解されない更紗の本心
世間的にはロリコンの大学生が小学生を誘拐、そして数ヵ月も監禁した事件という認識になってしまっているため、被害者である更紗が実際に体験したことや、文に対する本当の想いは、けっして他人に理解されることはありません。
ときおり更紗が「変なことは全然されていないの」「ほんとうは文はいい人なの」と他人に本当のことを打ち明けることがあるのですが、説明すればするほどに、トラウマから記憶を変えてしまっている、あるいは、ストックホルム症候群だ、などと、余計に哀れな視線に晒される結果になってしまうのです。
更紗としてはむしろ、きちんと文を弁護できなかった自分自身を責めながらその後の人生を送っているのですが、この構成によって、更紗がだれにも理解されず、それこそ世間が思い込んでいるのとは全く違う形で心に孤独を抱えたまま人生を過ごさなければいけない、ということが際立っています。
改名できなかったのだろうか
動物園で捕まえられるとき、泣き叫ぶ更紗の映像がニュースなどで流れました。そのため、インターネット上でその映像がずっとのこり、事件のことも定期的に情報が更新され続けます。
また、名前も放送されてしまったため、その後の人生で出会った人にはまず犯罪被害者として好奇の視線に晒される、という重荷を背負わされてしまいます。
単純に、改名するという選択肢について全く触れられないことに違和感がありました。文のほうは、表向きの名前を変えるという手段をとったりしていますが、更紗にだって弊害が多いのだから、名前を変えるという発想があるのが普通ではないでしょうか。
デジタルタトゥーという新しい時代の弊害は取り入れているのに、それに対抗する手段をまったく示すことなく丸腰の更紗にダメージばかり負わせるのは、なにか時代の一面を都合よくアイテムとして取り入れているだけような気がしてしまいました。
DV被害を甘く見過ぎでは
そもそも更紗の行動で解せないのが、DV被害に対する認識の甘さ。
同棲している彼氏、しかも明らかな常習者にあそこまで暴力を振るわれたら、できるだけ離れた場所に引っ越し、それこそ改名でもなんでもして逃げるのが普通ではないでしょうか。
ところが、更紗が引っ越すのは、彼氏がすぐに見つけてしまうであろう文のお店の近く。彼氏に場所がバレている職場を変えることもしません。これは、あまりに軽率な行動です。
更紗と文を近づける口実に、彼氏にDVでもさせ家を飛び出させておくか。そんなふうに、ストーリーを展開させるための都合よい設定だと勘繰りたくもなるというもの。
偶然にも文の隣部屋が空いているところも安直で、それでいて更紗は、文にも谷さんにも見つからないように過ごすつもりで住むのですから浅はかにも程があります(もちろんすぐにバレます)。
読むのがつらい、嫌な男の描写
嫌な男についての描写が手厳しいのが本作の特徴でもあります。
風呂に入るとき当たり前のように「着替え出しといて」とか、既に具材を用意している相手に「味噌汁の具はいらない」とか、あげく「俺より高い酒飲むんだな」とか、今どきこんなことを言う男は少ないと思うのですが、更紗はこういった嫌味にいちいち反応することなく受け流すという態度を取ります。
これによりなにか奥様同士の愚痴を聞かされているような効果が生まれ、そうそう!と相槌を打てる読者にはもしかしたら共感もあるのかもしれませんが、決して男の味方をするつもりはないのですが、ちょっと読むのがつらかったです。
最大の疑問
結果的に更紗と文は生活をともにすることになります。
であれば、普通に恋人同士として二人が幸せに暮らす、という設定でいいように思うのですが、なぜかその点について頑なに否定されます。
身体に悩みがあるとはいえ、文はロリコンではなかったわけだし、更紗にとっても恋愛感情ではないという納得できる理由が説明されているようには思えないのです。
「ラブラブか」と問われたとき、あそこまで否定することにむしろ不自然さを感じてしまいました。
まさかとは思いますが、文の患っている病気の人は、恋愛関係を構築するほうが不自然だとでもいいたいのでしょうか。
この辺りは女性と男性でも感想が違うかもしれませんし、もしかすると凪良ゆうさんが書くBL小説の世界を知っているとまた解釈の仕方があるのかもしれません。
本書に好意的な感想をもった知り合いによれば「男女を超えた間柄」という解釈だそうですが、それもいまいちピンと来ないというのが正直なところです。
本作を読んだ人にぜひご意見を伺いたい点です。
その病気ってなに?
結果的には小児性愛者ではなかった文ですが、少女に興味を向かわせた理由として病気が使われています。体の成長、とくに性器が成長しないことが文を悩ませるのです。
物語としてとても大事なところだと思うのだけど、何の病気か明確にしないところは逃げというか、不誠実ではないでしょうか。性器の成長の悩みから小児性愛を結びつける道筋もやや強引ですし、そこに何かしら差別の意識を感じるのは考えすぎでしょうか。
そもそも、ある時期の男性が自信を持てずに大人の女性に対して引け目を感じる、というような心理状態は、わざわざ病気になどならなくても起こり得ることだと思うのです。
育たないトネリコと自分を重ねて感傷的になるというような心理描写ばかり何度も描かれますが、こういう重要な設定を曖昧にする態度には首をひねらざるをえません。
小児性愛について
子どもに対する犯罪はもちろん決して認められないものです。また、一般的な女性にとって吐き気がでるほど受け入れ難いことは理解できます。
しかし、小児性愛者を一概に犯罪者、虐待加害者と一緒くたにすることが間違っていることは、ちょっと調べてみれば分かります。
この記事でも「小児性愛者は、性的虐待者や児童に性的いたずらを働く加害者のなかでも少数派に過ぎない」と専門家は指摘しています。
Wikipediaなどでは、小児性愛は性嗜好障害という医学的疾患だという見解もみられ、もちろん性的興味・嗜好と犯罪とは分けて考えるべきものです。
流浪の月のなかでは、文に近い谷さんでさえ「自分に当てはめて想像しただけでげえげえ吐く」ほどの生理的な反応を見せ、文から離れていきます。
そして、結果的に文は小児性愛者ではなく、更紗とともに暮らします。
「小児性愛=気持ち悪いもの」としてだけ捉え、更紗と文が一緒になるというストーリーため、そして文に安心して感情移入してもらうため、文は小児性愛者ではなかったということにしてしまう。
子どもや犯罪が絡むので繊細な問題であることは分かりますが、問題の一面だけ都合よく利用してただただ差別的に扱う点に違和感を感じてしまいました。
そもそもこの本自体、性犯罪者、性被害者というレッテルで苦しむ二人が主人公だというのに。
おすすめ
親の離婚と失踪、継母、性被害、誘拐、小児性愛、DV、病気…… ドラマチックな要素が詰まっているので読んでる途中で飽きることはないと思います。
細かいことを言えば、とにかくオシャレ雑貨屋アイテムにあふれた感じにうんざりだったり、文の喫茶店が「calico」だなんてすぐにGoogle翻訳してしまったり、いろいろ気になる点もありますが、特に感情も動かされない読書をするより、これだけ文句や疑問を感じることのできる話題の本を読めた、という点においてはある意味でよい体験だっといえるかと思います。
みなさんはどんな感想をお持ちになりますでしょうか。ぜひご一読ください。
コメント
私なりの解釈ですが、、、
■名前を変えなかったこと
文に見つけてほしかったからではないでしょうか?何万人と住むこの世界で、幼少期に出会った大学生と小学生なんて、成長で顔も背も声もかわります。そんな中、唯一のつながりは”名前”だけです。だらこそ、更紗は文に見つけてほしくて、また見つけたくて、そして文との時間を消したくなくて、あえて変更しなかったのではないでしょうか?そんな描写があったような気がします。
■DV被害に関して
これはきっと、文に出会えたことが嬉しくて盲目になっていたのではないでしょうか。DVされようがストーカーされようが、目の前に、文がいる、あの、探していた、夢にまでにみた、あの文がいる。謝れなかった、自分のせいで犯罪者にしてしまった、あの文がいる。それだけでもう世界は文だけになり、彼氏なんてもう眼中にないんです。被害受けるから、と居場所を変えたら、また文と離れてしまう。せっかく見つけた文を見失ってしまう。今度こそ離れない。そういう気持ちから、もう文以外見えてなかったのではないでしょうか?
この部分は文や谷さんに絶対バレるのに隣に住んだところにつながるのではないでしょうか。(隣が空いているのは少し非現実的ではありますが^^;)
私(更紗)の知らない文を知りたい。感じたい。気づかれなくてもいい。あの文が近くにいる、それだけで十分。
そんなところでしょうか。
■最大の疑問とされているところ
お互いの人生のターニングポイントとなったのが、共に暮らした数日間、そして逮捕され離れ離れになってしまったとき。
それこそ文にとっては自分を知るきっかけに、更紗にとっては救ってくれたのに、彼の人生を壊してしまった罪悪感を抱くきっかけになって、感謝と罪悪感とで一緒にいることがお互いを支え合うことができ、共依存というか、うまく言葉にできず、すみません。
要は、お互いが一番人生の中で幸せを感じてた時があのアパートで過ごした日々なので、その思いにはせながら、二人は過ごしているのではないでしょうか。
あの日々に恋愛は存在していませんし。
あのときの更紗も文に対して”お父さんと似ている”といっています。
ピーターパン症候群ではないですが、お互い楽しかった日々の続きを送っているんだと思います。
長々となりましたが、私はこう解釈しました。小説はお互いの主観で物語が変わります。そこが面白いところだと私は感じています。もし、まだ腑に落ちない部分がございましたら、私の勝手な解釈ですが、参考にしていだだければ、また違う物語を読むことができるかもしれません。でしゃばってすみません。
うにたらさん、力作のコメントありがとうございました。我ながら大人げないほどの批判的な記事に対して、冷静なご反応をいただき大変感謝しております。
こうして一つずつご指摘いただけますと、うにたらさんのご説明も腑に落ちるものがありました。特に、以前の暮らしをなぞるように現在の関係が地続きになっているという解釈にはなるほどと思わされました。
それを踏まえたうえでお聞きするとすれば、うにたらさん的にはそのような二人の関係に共感ポイントがやはりあるということでしょうか。
結局のところ、私にはその関係性にどうも現実感を得られなかったという点が大きいのだと、今回コメントをいただいて改めて思いました。
※
でしゃばってだなんてとんでもありません。えらそうに記事を書いちゃってますがこちらも単なる読書好きおじさんです。改めてコメントありがとうございました。
情熱大陸で広瀬すずさんを取材した中でこの作品を知り、数ある検索の中で拝見しました。深沢商店さんの批評については一般の人にとってはこんな風に感じるものなんだ、と少し残念な気持ちになりながら読み、コメントを残そうとスクロールしたところ、うにたらさんの解釈コメントに、体温が上がる感覚がありました。とてもデリケートな問題で、本当に当事者の抱えてる様々な背景、その時々の状況、心情は一般的に理解するには難しい内容だと思います。だからこそ、深沢商店さんの批評にもあるように説明不足な部分と主人公の不可解な行動についての描写にもう少し理解できる文章力、表現力が欲しかった、とも思いました。とても考えさせられる題材での作品なので、『わかる人にしか伝わらない』ものではなく、多くの人に伝わって考えさせるような作品であってほしいと思うのです。取り留めのないコメントで失礼しました。
樋田有馬さん、コメントありがとうございました。
まず大前提として「一般の人にとってはこんな風に感じるものなんだ、と少し残念な気持ちに」というのはまったく誤解ではないでしょうか。
2020年本屋大賞、2022年には広瀬すずと松坂桃李で映画公開ですよ。
私の読み方が捻くれていて好みに合わなかったというだけで、この本は沢山の方に感銘を与えています。
樋田有馬さんはじめ、多くの一般的な読者の方には受け入れられている作品だと理解しています。
本作に愛着のある方がこの記事を読むとあまり気持ちよくないであろうことも理解しており、それゆえ冒頭に「本作、あるいは凪良ゆうファンの方にはもしかすると不愉快に思われる部分もあるかと思いますので、そのような方はスルーしていただきますようご注意ください。」との一文を入れた次第ですので、ご理解のほどよろしくお願いいたします。