主人公アイに感情移入できるかどうかが、この小説を楽しめるかどうかのポイントだと思うのだけど、残念ながらそうすることが難しかったです。
西加奈子の小説は3作品目ですが、いまひとつ波長が合いません。
あらすじ
日本人の母とアメリカ人の父という比較的裕福な家庭の養子となった、シリアで生まれた女の子、アイ。
小学校まではニューヨークで暮らし、父の転勤にともない、日本の中学校へと入る。
勉強がとてもよくでき、中学、高校と常に学年でトップをキープ。
大学では数学を専攻。
反原発デモに参加をした縁で年上のカメラマン、ユウと出会い、結婚することを決める。ユウとの子供を望むがなかなかめぐまれず、不妊治療に取り組み、ようやく妊娠することができたが……
常に自身のアイデンティティと向き合いながら生きていくアイの成長を描く一冊。
感想
以下に述べることはあくまでも個人的な感想に過ぎませんが、批判的な内容を含みます。本作品、及び西加奈子さんのファンの方は気分を害する恐れがあるので留意いただけますと幸いです。
この世界にアイは存在しません。
アイの環境で生まれたとするならば、そりゃ自分自身の存在というものを強く意識せざるをえないとは思います。
タイトルにもなっているiは数学の虚数を表しており、アイの、常に自身の存在意義と向き合い続ける状況と意味を重ねている。
なので、数学教師が言ったところである「この世界にi(アイ)は存在しません。」というフレーズが、若いアイの心に刺さることは理解できます。
しかし、それにしてもひとつのフレーズに役目を負わせすぎているように思うのです。
アイの自問の締めに必ず登場する「この世界にアイは存在しません。」
このフレーズに遭遇するたびに胸やけしたような気分になってしまい、ページを捲るテンションを維持するのに苦労しました。
もちろんこれは、自身がこのような青い問いにグッと来る年齢を過ぎてしまったことが理由であることも大いに関係あるとは思います。
世界では毎日悲惨な事件が起きている
アイが昔からつけている、世界中で起きた悲惨な事件の死亡者数を記録したノート。
なにかもっと有効なアイテムになり得るような気がするのだけど、こんなノートを付けている敏感な主人公、という演出以上の効果はあったでしょうか。
世界では毎日悲惨な事件が起きているのに、自分は今日の飯のことしか考えてない意地汚い存在。
こういった視点はもちろん誰の心にもあるし重要だと思う。
けれど、これをそのまま「世界では毎日悲惨な事件が起きているのに、お前は今日の飯のことしか考えてないのか」と言われてしまうとただの説教だし、あるいは「世界では毎日悲惨な事件が起きているのに、ワタシは今日のごはんのことしか考えてない意地汚い存在なの」と悩んでゲロを吐かれても、反応に窮してしまうのだ。(汚い表現で申し訳ありませんが、実際に吐くのです)
重ねますが、自身がグッと来る年齢を過ぎ、ひねくれてしまっていることが理由であることも否定しません。
設定はあるが物語がない
世界中で起きている悲惨な事件もそうだが、ジェンダー、セクシャリティ、国籍、差別……とにかく全編を通して、解決することが簡単でない、複雑だが人にとって大切な問題設定を突き付けられ続けます。
こういった設定自体にグッとくるし考えさせられるという人もいるだろうけれど、物語の面白さに引っ張られるという体験は、最後まで得られませんでした。
たとえば、アイとミナが妊娠を巡って喧嘩をするエピソード。
アイは不妊治療までしてようやく身ごもったのに、残念ながら子供を失ってしまう。
かたやアイの親友でレズビアンのミナは、ニューヨークで偶然出会った級友と(男性相手としては初めての)性交に至った結果、あっさり妊娠。
しかもその級友は、よりによってアイの初恋の人。
中絶を経験したばかりのアイは、ミナの生まないという選択をどうしても許せず喧嘩になってしまう。
ちょっとドラマチック設定が多すぎませんか。
感情が動くまえに胸やけをしてしまいます。
本作の底流にはアイの出自の問題がテーマとしてありますから、確かに新しい生命の誕生は重要なモチーフになり得ると思います。
けれどこれだけ設定を盛りつけられると焦点がボヤけてしまいます。
こういった大切なモチーフを、なんなら親友との喧嘩、そして仲直りへ、という終盤へのフリに使ってるだけじゃないかとさえ邪推してしまうのです。
共感しにくい問題
冒頭、そして繰り返し触れた通り、アイの特別で繊細な境遇と若々しい悩みは、おっさんにとって感情移入が難しい設定なのかもしれません。
しかし例えば平野啓一郎の「マチネの終わりに」は、若かりし頃から天才の名を欲しいままにするギタリスト蒔野(まきの)と、映画監督を父に持ち、フランスの通信社で記者をしている洋子とのラブストーリーです。
庶民派おっさん読者にはかなり共感難易度高めな設定に、途中まではだいぶ戸惑いましたが、ストーリーと構成の巧みさでラストではしっかり感動させられたのです。
一概に比較はできないにせよ、物語の面白さがあれば、あらゆる設定や境遇に共感できる。それが小説を読むの楽しさっていうものではないでしょうか。
美しすぎるラストシーン問題
本作との相容れなさを決定的にしたのは、妊娠のことで喧嘩をしていたアイとミナが仲直りをした海でのシーンです。
仲直りをしたアイとミナは二人で海辺にいる。
着替えに戻るのが面倒なアイは、おもむろに下着姿となり夜の海へ歩き出す。
海に入るとアイは下着も脱いでしまい全裸に。
脱ぎ捨てた下着はミナのいる浜のほうに投げかえし、ミナは呆れたようにそれを拾う。
アイはさらに深い海へと潜り、波に揉まれながら、自分の膝を抱える……まるで、胎児のように。
実に「映える」シーンです。
映えてますから、これにときめく人だってきっといるでしょう。
でも、それこそキラキラしたカフェでパンケーキの写真をインスタにアップするかのごとく、映えるためだけのキラキラ描写のように感じられてしまうです。
これに対して紹介したいのは今村夏子「星の子」のラストシーン。
両親は娘に星を見ようと外に連れ出す。
しかしそれはただの口実で、両親には娘へ伝えなければならないことがあった。
娘の将来を考えての重大な決断だが、なかなか切り出せずに時間だけが過ぎる。
「寒いからそろそろ帰ろう」と両親を気遣う娘。
「もう少し星を見ていようよ」と切り出すタイミングを伺う両親。
宗教施設の庭で、寒さに震えながら星を見上げている様子は決して映えてはいませんが、散々っぱら娘を振り回してきた両親がその関係性を変えようという重大局面。
優しさ、思いやり、緊張感の満ちた名シーンです。
つまり感動するシーンというのは、映えてるかどうかとはほとんど関係ないのです。特におっさん読者には。
最後に
以上のように、この度の読書はなかなか楽しかったとはいいにくい読書体験となりました。
しかし、皮肉ではなく、こういうのは相性があると思っています。
いったん苦手だと思ってしまうと、本筋とは関係ないところでのちょっとした表現や言い回しでさえ、いちいち引っかかってしまうものです。西加奈子だけでなく、村上春樹のアメリカンな言い回しが苦手だという人がけっこういるのと同じです。
そもそも世間の評価はとても高く、本屋大賞2017にもノミネートされ、20万部以上の爆売れです。おっさん読者がちょっとくらい不満を述べたところでどうってことはないのです。
巻末の対談では芥川賞作家であるところの又吉直樹が「ただただ、ぐっときました」と絶賛。
「読み終わったあともずっと感動に浸っていました。なんてすごいんだろう」と、帯には中村文則も寄せています。
ぜひ、おっさんの感想に突っ込みを入れるべく、本作を手に取ってみてはいかがでしょうか。
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