今ではその面影はほとんどありませんが、反町にあった遊郭について、ネットなどで得られた情報をもとにまとめておきます。
反町遊郭(青木町遊郭)について
反町遊郭ができたのは、明治33年5月(1900年)。
当時の神奈川町(神奈川台場までの埋立地、現在の栄町あたり)から移転してきました。
青木町遊郭とも言われていたそう。
終わりを迎えるのは、昭和16年(1941年)に太平洋戦争がはじまったことによります。
贅沢は禁止され、戦争のために遊郭の建物などが宿舎に使われはじめます。
そして終戦の年、5月の横浜大空襲で焼失してしまいます。
16~21軒のお店が、これだけ密集したエリアで約40年続いていたのですから、遊郭とはいえそれなりに地域に浸透していたのではないでしょうか。
昭和五年二月の三千分一地形図を横浜市都市計画課のサイトで参照することができます。
赤い丸のなかが反町遊郭、入り口には大門があったそうです。
東横線の反町駅から、東海道本線へと向かう道は遊郭の入り口とも接していることから、大門通り商店街と呼ばれていたそうです。
同じく、昭和三十八年十月の地図のうえに、できるだけ元の場所と一致するよう反町遊郭を合わせてみました。
空襲による焼失が甚大だったせいか、意図的な都市計画なのかは不明ですが、遊郭内の道路や街区はほとんど継承されていないことが分かります。
昭和五年の地図には載っている大鷲神社も見当たりません。
遊郭の入り口、大門のあたりからのストリートビューです。
当時は、正面に見える道よりも向かって左側に道があったということです。
大門があったのは、反町中央整骨院の正面入り口あたりでしょうか。
道の右側、みどり色の庇が出ているうなぎの菊家さんは、じつは明治23年(1890年)からこの地で営業している老舗うなぎ屋。
遊郭が移転してくる前からあったということです。
菊家さんは、大門のすぐ脇でお店を構えられていたそうのなので、現在の店舗よりも左手前の位置にあったことになります。
建物は当時のものを移築したのか、戦後建てなおしたのかは分かりませんが、周辺でもひときわ風情ある佇まいとなっています。
戦後の反町遊郭(青木町遊郭)周辺
終戦から4年後の1949年、反町遊郭の周辺は日本貿易博覧会の第二会場となり多くの人を集めます(会期は3月15日~6月15日)。
閉会後は日本貿易博覧会のために建てられたパビリオンが横浜市役所市庁舎となり、1959年に関内へと移転するまで、約10年にわたって市の中心として栄えました。
市庁舎の移転から4年後の1963年、市庁舎跡地は反町公園として整備されます。
当初は、ジェットコースター、釣堀、バッティングセンター、ローラースケートリンク、プール、ゴーカート場などがあり、公園というよりは遊園地に近いものでした。
それらの遊具も徐々に無くなり、1951年から営業していた神奈川スケートリンク(日本貿易博覧会では演芸館だった)も横浜銀行アイスアリーナとして2015年12月にリニューアルされました。
リニューアル前の神奈川スケートリンク。昭和感満点。
※
反町遊郭のあったエリアは、ある意味で社会の裏の賑わいを支える場所から、戦後一転して横浜の復興と繁栄を象徴する中心地になりました。
高度成長期を過ぎると、横浜駅周辺や湾岸エリアは国内有数の都市へ発展を遂げます。
反町公園は、子供たちが遊べる遊具が少しあって、木々の繁る気持ちのよい公園に。
周辺はマンションやお店の並ぶ、ごく普通の落ち着いた住宅地になっています。
反町遊郭(青木町遊郭)について参考にしたページ
反町駅周辺は昔「遊郭」だったって本当!?
https://hamarepo.com/story.php?story_id=4462
反町遊郭と反町大門通り商店街
http://touyoko-ensen.com/mini%E2%80%90info/cook/ht-txt/179matinami-19.html
オカベの歴史
http://www.okabe-cr.com/history.html
横浜遊郭のまとめ
http://blog.livedoor.jp/tomtoms2004/archives/cat_10014820.html
コメント
[…] 反町にあったという遊郭について 明治になってできた遊郭。神奈川にあった「反町遊郭」 […]